「勝手にしやがれ」を生きてみたい

先日、自分が関わった作品をはじめて、まったく初対面の人々に見て頂いた。

多くの方から、熱いコメントを頂いた。その中に、四宮鉄男さんがいた。板垣退助のような髭を携えた、65歳の映像職人である。僕自身が建築出身であるということから、建築を設計するプロセスを例えて、映像制作を語っていただいたことに、深い関心を抱いた。建築の設計は、学部時代に熱中したものだから、改めて映像制作と比較してみるとおもしろかった。
 例えなので、厳密には建築のこのプロセスは、映像制作ではこれとはいかない。なのであくまで自分のなかで解釈する。
  間取りは、敷地の条件と同じだと思う。敷地が小さければ、映画で言う短編映画の構成にならざるを得ない。規模の問題がまずあるということだろう。規模によって規定されるなかでどう表現すのか。
 中庭を通って一度、外に出なければトイレにも、寝室にも行けないような間取りなのか・・間取りは簡単でも、動線(人の移動の線、立体的には階段、スロープなど)を工夫するということもある。動線を考えるプロセスは、映画で言うと構成のシーンのつながりを考える。構成の段階と似ていると思う。このシーンの入り口と出口はどういうカットのイメージがいいのか。
 次第に構造を考える。あるいは、構造が先にあってもいい。つまり構造設計の特性を生かして、間取り、動線が決められていく。(構造が先にくる映画は、実験映画・・昔は構造映画という概念があったくらいだ。フィルムの特性が表現として提示されている。そこまで極端でなく、単純に映画の構造とでも呼べるようなものがあるという程度にとらえてもらいたい。)
 規模が大きくなればなるほど、構造が重要な位置を占めてくる。極端な構造だけのかたちで表現するのではなく、むしろその建築の用途自体からの新しい文脈(例えば都市のイメージも、時代ごとに変遷している。公共という概念も、時代ごとの変遷している。)から発生した構造設計が、最近多いであろう。(仙台メディアテークが最たるものだろう。柱も壁もない空間を、自由に仕切って市民のアイデアで空間を利用していける。)
 ドキュメンタリーは、文脈をわかりやすく提示するだけでなく、そこに構造をも新たに提示できればおもしろいだろう。TVドキュメンタリーの多くは、企画段階の文脈を補完するための映像制作で終わっている場合が多い。むしろ、ドキュメンタリー映画と呼べる作品で秀逸なものは、しっかりと構造が見えてくるものだろう。
 四宮さんが、「構造」と「流れ」が一致しないと難しいという話をされていた。解釈してみると、上記の文脈、つまりこの映画が伝えたいこと、今の時代の状況でこの映画が伝えられること・・それが「流れ」なのだと思う。その「流れ」を、映画の構成・建築でいう構造で伝える。それが映画が映画である所以だし、建築が建築である所以であると感じている。
そう考えると、建築と映画の類推的な考察は楽しい!また建築雑誌をあさり読みしたくなってきた!!!

仕上げの段階では素材自体の特性を生かした、(鉄の雰囲気、石の雰囲気など)素材の選定も重要な要素である。(どんな映像が映っているか、どんなインタビューが撮れいているか、ナレーションはどんな人がいいのか。音楽はどんなイメージなのか。)
素材自体が建築空間(間取り、動線、構造)を、映画の雰囲気を決定することもある。
つまり、編集の段階で、構成が大幅に変わることだって映画の場合はあり得る。

一応セオリーがあるように感じるが、(基本的には・・最近の青山真治監督の言葉で気に入っているので使わせてください。)勝手にしやがれ!ということが建築と映画の違いだと思う。映画に法規はない。勝手にしやがれな、職業である。

後日、上映会で考えたこと、四宮さんから教えていただいたことなど報告します。 
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by barubuhutatabi | 2006-11-23 01:02 | 自主上映会


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