羅針盤

この間、半年以上ブログを書くのをやめていた。理由はなかったけど、自分の環境を変えたかったのだと思う。だから、日々の記録がうそっぽく感じていた。(ということにしようと思う。)結果的にその間に、事務所を退職してフリー宣言をした直後に、テレビの特番の仕事を経験できた。ドラマの現場で仕事を、短い期間だけど経験できた。そして、その仕事もひとくぎりつき、こうして文章を書いている。幸運にも、次の仕事は、決まっている。山形の小さな温泉街のドキュメンタリー映画だ。今は、その仕事で自分の表現したいことを明確にするための準備期間だ。この作品で、けじめをつけたい。ドキュメンタリー映画に出会ってから9年近く経つ。ここらで、映画という表現形式を用いて、自分の表現したいことを明確にしたい。大げさなことではなくて、まさに日記をつけるような日々積み重ねていく作業(具体的な段取り)と、映画をつくるということへの喜び(被写体との関係性、スタッフとの共同作業)と、表現を楽しむ精神(映像と音をいかに構築するか、編集であり、撮影時の工夫)があれば、乗り切れると思う。

最近、映画のシナリオ、演劇(戯曲)というフィールドへ、もっと深入りしたいと思っている。俳優という被写体にも興味がある。シナリオという、映像の設計図を考えることは、建築を勉強してきたなかでの、思考のプロセスを強く思い起こさせる。映画の表現形式を、深く理解し、シナリオを書いていきたい。

演劇(戯曲)は、映画のシナリオと似て非なるものだと思うが、俳優との具体的な作業を理解するうえで非常に重要なフィールドだ。

以後、演劇もシナリオについてのブログも書きたい。あくまで、自分が日々どの地点にいたかを示す、羅針盤のようなものにしたい。
[PR]
# by barubuhutatabi | 2008-06-02 11:49

チェ・ゲバラを知らなかった私と、「汚れた血」を知っていた私

昨日、ポレポレ東中野でチェ・ゲバラのドキュメンタリー映画を観た。チェ・ゲバラの最初のゲリラに参加した生き証人や、チェ・ゲバラと交流があった人の証言によって構成された映画だ。証言者の年齢を考えると非常に貴重な記録になっていた。チェを小さい時から知っている老人や、側近の魅力ある、ユーモアのある、証言によって、あくまでも、チェ・ゲバラ伝説は補完されている。チェの宣伝映画とも呼べるような映画だが、正直言って感化されてしまった。と同時に、親友が信奉していた、チェをなんとなくしか知らず、親友の熱い気持ちも知らなかったのだと実感した。親友が南米に行ってきた時のことを、今度じっくり聞きたい。(しかし、彼はもう故郷に帰ってしまった。)少しの後悔をしての家路の途中で、TSUTAYAの半額キャンペーンもあって、「汚れた血」(レオス・カラックス監督)を借りて、数年ぶりに観た。この映画は、20歳で出会い、自分にとっての最高の映画だった。その当時は、こんな愛を語ってみたいというような映画であり、同時に、映像表現として私自身の意欲を、突き動かされた。久しぶりに観て、当時は、単なるささやき、ポエジーたっぷりのせりふにしか聞こえなかったのが、せりふに作者の意図がしっかりと感じられた。そして、なんてユーモアたっぷりの恋愛映画なんだろうと思った。最初に観た、崇高な恋愛映画ではなく、親しみのある恋愛映画に変わっていて驚いた。

たった、半日でこのような映画体験をした。翌日の今日、国立近代フィルムセンターで、ポーランドの短編特集を観て、映画を楽しんだ。その中の作品で、前回書いた「アマチュア」の作者、クシシュトフ・キェシトフスキが作った5分の短編を観た。その映画は、「汚れた血」の印象的なジュリエット・ビノシュ演じるヒロインとドニ・ラヴァン演じる主人公がバスで出会う、場面とそっくりであった。カラックスが、シネフィルだったことから推測すると、フランスの映画館で観たのかもしれない。しかし、カラックス自身のモチーフでまとめたと考えた方がファンの一人として、ありがたいのではあるが・・、いずれにしても映画とはそのような共体験を呼び起こすのかもしれない。

この二つの些細なことから、単純な教訓を受けた。要は、《知ったつもりは、良くない。》という教訓だ。当たり前だが、情報社会の中では、これは日々起こりうることだ。多くの情報は、人から聞いた話や、噂、テレビの受け売りなど、情報として精度が低いのだ。それに無意識でいると、情報の量によってのみ充足する社会になっていく。それを避けて、自分で判断するには、疑う心、というか懐疑精神が必要だろう。※懐疑論(客観的真理の認識可能性を疑い、断定的判断を原理的に差し控える態度)(広辞苑より)※
 今後の作品を見続けたかった、ドキュメンタリー映画の希有な作家、(先日亡くなった)佐藤真さんの「ドキュメンタリーは、批判的に世界を映し出す鏡である。」という言葉がある。批判的に世界を映し出す鏡はきっと、日々磨き続ける作業を要するだろう。些細なことのなかに、とぎすまされた懐疑精神が宿るのではないだろうかと私は感じてる。その懐疑精神とは、何より自分自身に強く向けられるからこそ、有効なのだろう。
 些細なことだからこそ、見えにくくなる物事への態度を、強く意識していたのが、真さんの言葉の根底にあるのかもしれないと、今は受け止めています。また、時が経つと、違った意味合いを帯びるのかもしれませんね。
[PR]
# by barubuhutatabi | 2007-09-23 22:00

アマチュア

「アマチュア」を観た。
数週間前にDVDで観た作品だが、けっこう衝撃的だった。劇映画なのだが、もう最近は映画であればすべて学ぶべき対象になっている。一、二年前は、フィクションとノンフィクションを分けて考えていた。これは大きな間違いで、映画は結局、編集という過程で、その区別は消滅することに気づいた。(気づくのが遅すぎた!!)この映画は、ポーランドの映画で、ある工場に勤める男が8ミリフィルムのカメラを手にしたことから、悲劇のようでもあり、喜劇のような顛末を描いたものだ。すごく、身にしみて自分と照らし合わせて観てしまった。なぜなら、カメラを手にしたことで人生が変わってしまった男の物語だからだ。私も、デジタル時代の潮流においてカメラと出会い人生を転換した、元々は建築を愛する学生だった。まあそれは置いておいて・・・この映画で印象的なのはこの男が、アマチュアの映画祭で賞を取ったことがきっかけで、新妻との幸せな生活より、カメラの表現に目覚め、ベランダから道行く人々を記録するなど、カメラによる世界との関係の構築にのめり込んでいった。まあ、一度カメラに目覚めると、当たり前の話にも感じるがが、この映画は8ミリフィルムが普及し始めたころの、1970年代の個人映画制作が広がった頃の様子が、ポーランドという東欧特有の場所で描かれている。工場の記念映画を撮り始め、評価されたことで工場に特別なラボを持つまでになり、工場の障害者の日常を記録したことでテレビにも評価され、さらに16ミリでのルポルタージュをテレビから依頼されるまでになる。しかし、障害者の映画はテレビでも公開され、工場の幹部は首になった。(ポーランドの社会主義の体制が反映されているはず)しかし、工場長は決して怒るわけでなく、男を諭すように語りかけ、首にされた幹部も皮肉にも男を励ます。男は、自分を責め次回作の素材を現像せずに路上に投げ捨て感光させてしまう。妻にも捨てられ、やつれた男はおもむろにカメラを自分に向け妻が出産した日の光景を語り始めて、この映画は終わる。
 ラストシーンと、途中のシーンで感じたのは、この映画の監督が抱く、芸術映画、個人映画への危惧というモノがアマチュアというタイトルになったのではないか。正確ではないかもしれないが、そう感じた。映画は、ある部分でカメラの利便性で変革されたのかもしれない。それは過去の作品でも、証明されている。ただ、真の作家が生まれたのかと問えば多くはアマチュアのままだということではないか?
 技術的にプロで、アマチュアの精神をもてという言葉も聞く。確かに、アマチュアの精神は熱しやすいので、その熱意をカメラに反映することにもなるだろう。この映画で私が感じたアマチュアという問題提起は、きっとそういうことではなく、作家として生きると言うことへの問いかけだと思う。
 園子恩がPFFでグランプリを取った「男の花道」という8ミリ映画は、完全に個人映画だ。前半では大学のキャンパス、後半は実家を舞台にした、パフォーマンス映画というか、出来事だけを記述した映画だ。個々のシーンのつながりはほとんど感じられない。しかしこの映画には、恐ろしくなる程の映画の時間、質感を十分に感じさせる。この映画をつくった後に、スカラシップを得て作った「自転車吐息」は、「男の花道」で感じた、この映画しかもちえない雰囲気としか言いようがないモノをしっかりと、シナリオを通して映画に反映させていた。
 その後の「部屋」、「紀子の食卓」へと繋がる彼の、系譜は驚く!この、変容を問いたい!それがアマチュアという問いだと思う!
[PR]
# by barubuhutatabi | 2007-07-18 20:26

加速する変動 -Accelerated Development-

この映画は、映画美学校の公開講座で観た。以前に観た作品だが、戦闘シーンの記録映像の実験的なフィルムの表現の部分以外、すっかり忘れていたようだ。
 この映画の監督コロラド州出身のトラヴィス・ウィルカーソンは、キューバの代表的なドキュメンタリー映画作家サンチャゴ・アルヴァレスの生涯を通して激動の20世紀を描いた。サンチャゴ・アルヴァレスは、アメリカでの留学の経験(その間は、炭坑で働くなど課過酷な労働をしている。その間、マルクス主義に目覚める。)があり、その後、兵役につくなら故郷でと、帰国する。そして、1950年代は音楽番組を制作しながら、バティスタ独裁政権に反対する運動に参加、その後、ニュース映画で映画を本格的に作り始めるそのとき、既に40歳になる。彼は「写真2枚と、音楽と、編集機をくれ。それで映画を作れる。」と言っている。キューバのドキュメンタリーは、音楽そのものなのだろう。彼の、映像と音楽のモンタージュは、観ていて体が動いてくる。しかし、映像では黒人の差別問題、白人警察の暴力が映し出される。反戦、非暴力、差別への怒りをリズムに乗せて伝える力を改めて知った。今では、それほど驚く技術ではないが。今でも多く見かける手段だ。そのルーツは、このキューバなのかもしれない。キューバの加速する様々な変動のなかで、映画に導かれていったサンチャゴ・アルヴァレスは、最後にはパーキンソン病と戦いながら、アメリカからの抑圧に苦しむ社会主義の故郷で亡くなった。
  ベトナム戦争の空襲をサンチャゴ・アルヴァレスも現地で体験している。トラヴィス・ウィルカーソンは、その回想シーンとして、ベトナム戦争の記録映像に実験的な加工を施している。フィルムがまっぷっつに割れて、まるで稲妻がベトナム戦争の戦闘シーンに直撃したようだ。これは元々ある映像素材を加工した実験映画でよく使われるような表現だが、鮮烈な印象で仕上がっている。
 また別のシーンでは、ニュース映画の持つ戦闘シーンや、被害を受けた住民の映像を、再生スピードを変えて逆再生などをして見せていく。(このビデオによると思われる、可変速度による再生はゴダールの「映画史」のような手法だ。)記録された映像素材が、何度も再生と逆再生を繰り返されていくのを眺めていると、虚しく揺れている風見鶏を眺めている気分になってきた。時代の波、運命に、さらに映画にももて遊ばれてしまう被害者の表情を眺めていると、カメラという恐ろしく忠実な機械が介在している事で映画は描かれていることに気づかされる。その、忠実さは不気味にすら感じられる。
 無意識に等しくなったカメラの忠実さによって記録された戦闘シーン、それをぶち壊す鮮烈で実験的なフィルム表現は・・・やはり圧巻だった。
 -追加で記載-
「加速する変動」を英語で訳するとAccelerated Development、Developmentはフィルムの現像も意味する。以前、8ミリフィルムを手現像、スチールの35ミリのフィルムを四缶現像できる缶に8ミリを押し込んで現像した。近代インターナショナルという会社で、ポジのフィルムの現像液を買った。とても楽しい経験だった。
何度も使い尽くされたニュースフィルムが観たこともない鮮烈な戦闘シーンとして再認識された。これがフィルムだ!映画だ!と改めて思う。僕は、ビデオ世代として、忘れてはならないのはフィルム表現の驚きと感覚だと思う。
[PR]
# by barubuhutatabi | 2007-05-12 20:43 | 映画

再見・チョムスキー

「合意の捏造:チョムスキーとメディア」
(英題)「Manufacturing Consent:Noam Chomsky and the Media」
~マスメディアは政府のプロパガンダに奉仕している~
二月にユーロスペースにてロードショーの作品だ。
山形のドキュメンタリー映画祭でも1993年に上映されている。同時にチョムスキーの同題「マニュファクチャリング・コンセント」和訳で刊行される。15年近く前の作品だが、なぜ注目されているのか。以前、山形の上映会で観たことがある。

(僕が理解した範囲での概略)
言語学のアインシュタインと呼ばれた天才は、今もっとも重要な反抗者である。政府は本質的に暴力的権威であると断言する。ベトナム戦争時代から、チョムスキーは政府を非難し続けている。
本作品は、メディアと政府との関係、私たち大衆を支配するメディアの考察であリ、今の日本が追随しているアメリカ社会が掲げる民主主義への懐疑心を露わにしている。盲目な大衆ではなく行動する個人のよりどこになるよう、メッセージが込められている。そして、オルタナティブ・メディアや人々の連帯に新たな可能性を見いだしている。
チョムスキーは、思想の注入という言葉を使っている。その一つにスポーツを熱狂的に取り上げることへの問題視を示している。「大衆を政治から引き離して、政治をやりやすくするのにスポーツ、娯楽といった番組は役立っている」という。「人々は生活に疲れ、政治を身近なものにできないでいる。」とも言う。「個室でテレビに向かっていては、個人は無力であり、思想的に無防備であり、個人の思考し、行動する可能性を奪われてしまう。」とも言う。単純でなキャッチフレーズだけが、無防備な個人に届けられる。そして個人が無気力な状況で、民衆の合意は捏造されてきた。


(自分に近づけて考えてみると・・)
日本において世論の捏造は非常に深刻な問題ではないか。政党がプロパガンダを用い、イメージ戦略に乗り出している。それだけでなく、NHKに現在の安倍晋三首相(当時は官房副長官)が「従軍慰安婦」の番組の改変を迫ったという問題があった。(岩波書店刊行シリーズ:ジャーナリズムの条件4:「ジャ-ナリズムの可能性」のなかで〈アジアプレス・インターナショナル代表〉野中章弘さんが記述している)野中氏はNHKと与党・自民党の癒着を詳しく追求するべきだとしている。現在、日本は防衛省を立ち上げ、海外派兵に大々的に取り組む姿勢を示している。今後はこの路線で改憲を推し進めていく政権とどう向き合い、歯止めをかけていったらいいのか?

僕自身、最近になって、政治への問題を考えようとしている段階で、とても一人で行動するのは無理だ。だからこそ、オルタナティブ・メディアへの興味が大きくなっている。オルタナティブメディアに関わる様々な人々と交流してみたいと思う。消費されてしまう娯楽の映画ではなく、問題を提起できるような、議論のきっかけになるような作品を目指していきたい。それには見てもらう場が必要で、自主上映のような形態が有効なのではないだろうか?

鎌仲ひとみ監督の「ヒバクシャ・・世界の終わりに・・」という映画は全国の自主上映で1万人に見られている。イラクで問題になっている劣化ウラン弾への取材を契機に、アメリカの核実験の最初の場所・ハンフォードで今でも核施設の隣で暮らす人々への取材、日本の被爆者への取材を行い、三つを「ヒバクシャ」という言葉で総括して問題提起している。劣化ウランは、原子力発電にでる核廃棄物を武器に転用したものだ。アメリカの発電で使われた大量の廃棄物を武器としてイラクの大地にばらまいた。劣化ウラン弾の使用は湾岸戦争に始まり、小児性白血病が多発しており、多重癌(一度にたくさん発ガンすること)の症例も多いそうだ。
核に汚染されたハンフォードで育てられたポテトはファーストフードのフライドポテトになるべくして日本に大量に輸出されている。当事者、汚染を知っていても生活を考えてやめる訳にはいかない。アメリカ政府が、汚染は認めない限り生産することができる。原子炉は日本に50基近くあって、世界有数の核大国だ。核は爆発による被爆だけでなく、微量の放射性物質でも体内吸い込まれると被爆するという「内部被爆」に付いても紹介している。体内に入った放射性物質はDNAを傷つけ、癌などの病気になる可能性が非常に高くなるという。核の問題は、日本人にとって身近な問題だ。この映画は恐怖をあおるような映画ではない。しかし、核という問題が生活に根ざしたところにあり、深刻な問題であるにも関わらず、議論されることがほとんどないということへ警笛を鳴らしていると思う。
実際に鎌仲さんは、ニューヨークでペーパー・タイガーズTVというメディア・アクティビストが運営する集団で、じり貧になりながらも制作をした経験がある。その後、日本で帰国後、偶然阪神大震災に出くわし、ボランティア活動を続けるなかでPTSD(心的外傷ストレス障害)に関する医療記録を始めたのが、日本での本格的な映像制作のスタートだそうだ。その後、癌医療のドキュメンタリーを制作後、イラクに医療薬を運ぶ民間のボランティアグループと出会い、劣化ウラン弾の問題をテーマにドキュメンタリーを作ったという経緯がある。

オルタナティブ・メディアとして、映像だけでなくラジオや、雑誌、新聞などもある。アメリカ、カナダ、韓国では盛んなようだ。オルタナティブ・メディアは、金銭的だけでなく様々な面で苦戦を強いられる。法律や、制度を利用したり、個人の工夫で何とかやり通しいると聞く。アクティブに生きている人々に出会い、刺激を受けたいものだ。
[PR]
# by barubuhutatabi | 2007-01-13 18:01 | 映画

めぐみ

横田めぐみさんを中心に拉致被害を描いた映画「めぐみ」を観た。
日本人ではなく、アメリカのジャーナリストがよくここまで密接な関係を拉致家族と築くことがでたのかと思った。日本人の制作者が拉致被害者の家族に加担するのは、容易なことではないのだろうと思う。拉致被害を無視された長い時間の後に、急に注目され政治家が血気盛んに応援するのをみていると、やはり安易に加担することの難しさがあると思う。
海外の方がストレートに加担できるのはどうしてなのだろうか?いずれにしても、親族を失った悲しみに浸り続けるのをやめ、拉致被害を訴え続けるという生き方は力に満ちていると強く感じた。

制作総指揮が「ピアノレッスン」を監督したジェーン・カンピオンだ。非常に良くできていて、インサートは多いが強引に意味づけるより、遊び心もあるインサートもあった。
しかし効果音がてんこ盛りで、言葉もずたずたに切って、インサートを多用するのはやりすぎかなとも思った。伝えたいニュアンスを素早く伝えようとしているのだろう。このやり方がいいとか、悪いとかではなくて、被写体との関係をこれだけ築いて撮影できたのだからもっとじっくり言葉を聞きたい、映像をゆっくりみていたいと強く思った。
自分がいいなあと思ったドキュメンタリーの作品の多くは余計な編集がされていない、インディペンデントの作品だった。四宮鉄男さんが「俺の編集の仕方は食えないやり方だ。(つまり商業的な作り込みはしない)」言っていたが、僕も観客にへつらって作るのは良くないと思う。だけど、多くの観客に観てもらわないと作品がないに等しくなってしまう。それも困る。

海外の作家が日本人を描いたドキュメンタリー作品で好きな作品
ジャン・ユンカーマン監督(1988制作)『劫火-ヒロシマからの旅-』(画家の丸木位里・俊夫妻を取材したは米国アカデミー賞記録映画部門ノミネート)

映画の固有の時間が感じられた時、被写体に実在感が出てくると感じる。『劫火-ヒロシマからの旅-』には、それがある。
広島、水俣、アウシュビッツといった多くの不条理の風景を描いてきた。ユンカーマンは、夫妻が広島で観た風景を語り、爆弾を落とした側のアメリカ人であるユンカーマンに向かって優しく語りかける。詳しい話の内容は忘れてしまったが、夫妻の作品を作る動機と不条理なものへの向き合いかたに驚いた記憶がある。ユンカーマンは、アメリカ人としてより一層驚いたのではないだろうか。画家の制作風景と、夫妻のインタビューがゆっくりと重なる。二人が喧嘩しながら、お互いの作風を認め、共同制作を続ける。制作のプロセスもおもしろい、丁寧に撮影して構成している。制作の時間を通して、夫妻の存在感は際だってくる。
[PR]
# by barubuhutatabi | 2007-01-12 01:18 | ロードショー

構成とは何だろう?

「なかなか見えない構成」
 四宮鉄男さんに出会って、構成というものがいかに大事か考えるようになった。
しかし相当映画を見慣れていなければ、一度見ただけで構成が把握できるものではないと思う。自分で作り、構成を考え編集してこそ、他人の作品を見て驚くのだろうと思う。今年はじめて構成と編集に関わることができた。今まで内容と視覚的な印象でしか映画を観ていなかったのかと思ってしまうほど、映画に対する認識が変わったとおもう。
 去年の夏から、今年の五月にかけて撮影した「歓喜を歌う~Andie Freude」という映画を10月に完成することができた。2006年5月6日に障害者の団体が6団体参加して、ベートーヴェンの第九交響曲~第四楽章~を合唱するコンサートが行われた。その練習から本番までの記録である。構成を何回も書き直して感じたのは、文章で構成を書くのだが、映画として説得力を持たせなければならない。映画をしらなければ書きようがないと思った。そして、僕はまだ映画を知らないことがわかった。
 撮影が終われば、撮影した素材をみて構成を考え直さなければならない。編集マンは、撮影現場に行かずに素材だけで構成を考える場合がほとんどだ。現場の苦労とは無縁に素材だけで考えることができる、もう一人の監督ともいえる。最近のビデオの低予算の作品は、優れたものでも監督、編集、さらに撮影もこなしているのが珍しくない。撮影現場で四苦八苦して考えた構成からもう一度大きく離れて映画を考え直す、なんとも人間離れした営みかと思ってしまう。
 四宮さんが「歓喜を歌う」を見て、「編集はいいが、構成がだめだ!」とおっしゃった。このとき、編集と構成はやはり違うのかと考えさせられた。絵のつながりだけに専念すると、構成という骨組みを見失ってしまう。構成とは?僕にとって、まだまだ未知の仕事だ。現在は、技術革新の恩恵で誰でも編集はできる、だけど構成を考えること、映画を考えることは独りよがりではいけない。
未知の領域を知り、映画を観るポイントが増えたと思う。やはり、映画は作れば作るほど、映画を観るのが楽しくてしょうがなくなってくる。
 
 上映会報告
11月19日に小岩の図書館で「メイシネマ」という上映会があり、「歓喜を歌う」を上映できました。あいにくの雨で、お客さんは13人ほどでした。徳島新聞の東京支社の方、広告プランナー、千葉県で上映活動をしながら映画館をつくろうと模索されている方など、本当に映画好きな方が集まっていました。小岩で燃料屋を営む藤崎さんが企画している上映会です。今年は、秋は上映会はしないと家族に宣言していたそうです。(しかし、四宮さんが構成した映画「花よ咲け」と「歓喜を歌う」の上映を決めてくださりました。)宣伝が遅れたので、会員の方々も少なかったようです。
 「花よ咲け」という映画について
”べてるの家”という精神疾患の方々が集う施設があり、そこに通う下野勉さんと山本加代さんが東京の大塚で歌ったライブを記録したビデオを構成した作品です。
精神障害の方が書いた詩に、下野勉さんが曲をつけて歌たった。そのライブはカメラが一台で、ほとんど撮りっぱなしで、編集はライブの休憩に、前日の練習のシーンを挟む程度だった。しかし、ライブがすごく素敵で編集なんかなくても感動的なライブだということがわかった。即興に近いギターと山本さんの歌声、二人の視線のやりとりをカメラはしっかりととらえていて、精神疾患を患いながら公の前で歌うということの緊張感、そして歌うということで二人の心はお客さんに開かれていく。わずかな時間だけど、多くの人と共有できる瞬間だ。
この編集をほとんどしていない映画でも、四宮さんの構成は光っていた。最後に感動的にライブが終了してラストを迎えたと思いきや、また本番当日のリハーサルのシーンに戻っていた。このライブの最初の曲のタイトルは「精神病院へようこそ」という曲だ。曲の調子も暗く、歌う調子も明るさはない。やり場のない気持ちを「精神病院へようこそ!!!!」と叫ぶ曲だ。せっかく盛り上がったのだから、感動的に終わればいいのにと思った。だけどよく見てみると本番とは違って彼ら彼女らはいろんな工夫を試して歌っているのがわかった。お客さんに見せるという気持ちがしっかりとあるのがわかった。四宮さんは構成をこのようにすることで、この映画がライブの盛り上がりの中で完結してしまうのを避けけたかったのだと思う。歌うという行為は彼らがギリギリの精神状態で演じたもので、彼らはまた精神疾患という日常へ帰っていくのだと感じた。リハーサルを最後に見せることで精神疾患を持ちながら歌うということを改めて問うたのだと思う。
四宮さんは、僕が初めてブログで書いた「いのちを耕す人々」の映画の構成・編集を担当された方です。今年の文化庁の記録映画優秀作品として選ばれた作品です。現在は、映像万職人を自称しながら様々な映像の構成・編集をしていらっしゃいます。現在「わたしのニキ」というビデオを編集中です。那須高原にある、女性彫刻家のニキ・ド・サンファルの美術館の風景とその館長を描いた作品だそうです。編集の過程は、四宮鉄男さんのブログ「愚鉄パラダイス」にて結構くわしく公開しています。
[PR]
# by barubuhutatabi | 2006-12-11 00:16 | 映画

「勝手にしやがれ」を生きてみたい

先日、自分が関わった作品をはじめて、まったく初対面の人々に見て頂いた。

多くの方から、熱いコメントを頂いた。その中に、四宮鉄男さんがいた。板垣退助のような髭を携えた、65歳の映像職人である。僕自身が建築出身であるということから、建築を設計するプロセスを例えて、映像制作を語っていただいたことに、深い関心を抱いた。建築の設計は、学部時代に熱中したものだから、改めて映像制作と比較してみるとおもしろかった。
 例えなので、厳密には建築のこのプロセスは、映像制作ではこれとはいかない。なのであくまで自分のなかで解釈する。
  間取りは、敷地の条件と同じだと思う。敷地が小さければ、映画で言う短編映画の構成にならざるを得ない。規模の問題がまずあるということだろう。規模によって規定されるなかでどう表現すのか。
 中庭を通って一度、外に出なければトイレにも、寝室にも行けないような間取りなのか・・間取りは簡単でも、動線(人の移動の線、立体的には階段、スロープなど)を工夫するということもある。動線を考えるプロセスは、映画で言うと構成のシーンのつながりを考える。構成の段階と似ていると思う。このシーンの入り口と出口はどういうカットのイメージがいいのか。
 次第に構造を考える。あるいは、構造が先にあってもいい。つまり構造設計の特性を生かして、間取り、動線が決められていく。(構造が先にくる映画は、実験映画・・昔は構造映画という概念があったくらいだ。フィルムの特性が表現として提示されている。そこまで極端でなく、単純に映画の構造とでも呼べるようなものがあるという程度にとらえてもらいたい。)
 規模が大きくなればなるほど、構造が重要な位置を占めてくる。極端な構造だけのかたちで表現するのではなく、むしろその建築の用途自体からの新しい文脈(例えば都市のイメージも、時代ごとに変遷している。公共という概念も、時代ごとの変遷している。)から発生した構造設計が、最近多いであろう。(仙台メディアテークが最たるものだろう。柱も壁もない空間を、自由に仕切って市民のアイデアで空間を利用していける。)
 ドキュメンタリーは、文脈をわかりやすく提示するだけでなく、そこに構造をも新たに提示できればおもしろいだろう。TVドキュメンタリーの多くは、企画段階の文脈を補完するための映像制作で終わっている場合が多い。むしろ、ドキュメンタリー映画と呼べる作品で秀逸なものは、しっかりと構造が見えてくるものだろう。
 四宮さんが、「構造」と「流れ」が一致しないと難しいという話をされていた。解釈してみると、上記の文脈、つまりこの映画が伝えたいこと、今の時代の状況でこの映画が伝えられること・・それが「流れ」なのだと思う。その「流れ」を、映画の構成・建築でいう構造で伝える。それが映画が映画である所以だし、建築が建築である所以であると感じている。
そう考えると、建築と映画の類推的な考察は楽しい!また建築雑誌をあさり読みしたくなってきた!!!

仕上げの段階では素材自体の特性を生かした、(鉄の雰囲気、石の雰囲気など)素材の選定も重要な要素である。(どんな映像が映っているか、どんなインタビューが撮れいているか、ナレーションはどんな人がいいのか。音楽はどんなイメージなのか。)
素材自体が建築空間(間取り、動線、構造)を、映画の雰囲気を決定することもある。
つまり、編集の段階で、構成が大幅に変わることだって映画の場合はあり得る。

一応セオリーがあるように感じるが、(基本的には・・最近の青山真治監督の言葉で気に入っているので使わせてください。)勝手にしやがれ!ということが建築と映画の違いだと思う。映画に法規はない。勝手にしやがれな、職業である。

後日、上映会で考えたこと、四宮さんから教えていただいたことなど報告します。 
[PR]
# by barubuhutatabi | 2006-11-23 01:02 | 自主上映会

六ヶ所村ラプソディー

この映画は、とにかく観てほしい。鎌仲ひとみ監督で、ポレポレ東中野でモーニングショーが終わって、すぐにアンコール上映が決まった。たぶん来年の春先にまた上映されるのだろう。
一番観て欲しいのは、日本の農家の人たち、漁業の人たちに観てもらいたい。そして、中学、高校生と若い人にもこれから何を選択していくのかをじっくりと考えていくべきかを考えるきっかけを与えてくれると思う。一見すると、鎌仲ひとみのスタイルはテレビドキュメンタリーという手法からそれほどかけ離れていないのに、なぜこんなに核心的なテーマに触れることができるのか?それは、状況をしっかりと把握していることだと思う。
これから、どう汚染されていくのか。汚染される土地に住む人はどういう人たちなのか。世界の核施設はどういう状況なのか。この三つが映画を通して伝わってくることだ。
 電力を売って儲ける一部の人間の為に、エネルギー問題の解決という欺瞞のもとに金儲けができる法律、制度をつくってきた一部の人間のために日本の国土が100万年単位で汚染されていく。金儲けできなくなるまで、汚染し続けるというシナリオはできている。もう、引き金は引かれたのだ。プルトニウムは発ガン性がウランを遙かにしのぐ量を発する。生身の人間が2秒浴びれば即死する量を100万年もの単位で放出し続ける。
 この作品によって、ジャーナリズムとドキュメンタリーの速度が一致したと思う。ドキュメンタリー映画がジャーナリズムを批判できる位置に追い越したとも思う。どれだけ欺瞞に満ちた世界になりつつあるか感じる。忍び寄る恐怖に警鈴をならすのがジャーナリズムなのに、この世界一の核大国になった日本のなかでは鳴り響くことはなかった。
 
 この作品は核燃サイクルの再処理工場がある六ヶ所村を描いている。戦後、樺太から引き上げてきた人々が開拓した地だが「むつ小河原開発」という巨大な開発が持ち上がり、自民党のアメをもった県の職員が高額で土地を購入していった。しかし、開発はやってこなかった。農家は、仕事を失った。そして、日本原燃がやってきて核燃サイクルの処理場が計画された。村人は、反対派と推進派に分かれて戦った。お金に目がくらんだ人々によって議会で承認され、核燃はやってきた。
そして、もうウラン試験を終えて、プルトニウムを取り出す作業が始まっている。放射能に汚染された廃水は、沖合三キロ地点に海底から放出される。一秒間に70トンの水を7度も上昇させて24時間、365日動き続ける。温度に敏感な魚のとっては深刻だ。
イギリスの核燃サイクルの再処理場が今年事故が起きた。工場内の汚染を改善するのに5000億円がかかるそうだ。イギリスは、再処理場を閉鎖するそうだ。フランスでは、もうとっくにプルトニウムを取り出すというリスクが高い計画から手を引いている。世界で、プルトニウムを平和利用している国はない。すべて核兵器に用いられている。なぜそこまでして日本はプルトニウムをほしがるのか?
 いずれにしても、イギリスの海ではプルトニウムが海岸から検出されている。有名だったビーチは今では誰も訪れない。このことが小さな日本で今まさに起きようとしている。
映画の中で、青森で農業を営んでる有機農業の農家がでている。工場の煙突から空気中に原子炉の一部の空気が排出されるそうだ。周辺の作物は、確実に放射能を蓄積している。
原子力発電がなくならないにしても、目的のないプルトニウムの製造だけは止めなければならない。

〈お知らせ〉 
12月2日に渋谷の勤労福祉会館で「終焉に向かう原子力」という講演会と上映会がある。
京都大学原子炉実験所から、科学ライター、慶應義塾大学の助教授、作家が集まる。

10:30~13:00まで、原発による被害を伝えるビデオ5本上映します。

講演13:30~18:00
広瀬 隆 氏 (作家)「おだやかな私がなぜ怒らなければならないのか日本に住む人よ、知性を取り戻そう」
田中三彦 氏(科学ライター)「浜岡原発が危ない」
小出裕章 氏(京都大学原子炉実験所)「六ヶ所再処理工場の運転を許した私たち」
藤田祐幸 氏(慶応義塾大学助教授)「私はなぜ反原発であるか」

2006年12月2日(土)(10:20開場) 渋谷勤労福祉会館2階第一洋室
資料代1000円(ビデオ上映を含む)
問い合わせ先 :TEL・FAX03-3739-1368
[PR]
# by barubuhutatabi | 2006-10-30 00:12

生命倫理

羽田澄子監督の作品を観た。80歳の監督が、在宅医療について取材した映画だ。病院で、点滴などの管だらけで死んでしまう終末医療ではなく、在宅医療で家族に看取られながら死を待つことがどれだけ人間的な死を迎えられるかと訴えている。
最近、生命倫理について興味がある。NHKで立花隆が「サイボーグ近未来」を取材したドキュメンタリーが放映された。人間の神経をパソコンで解析する神経工学という分野の急成長が著しいそうだ。自己で腕がなくなった人の神経に、電極を接続してロボットの腕の意識だけで動かすことに成功しているそうだ。頭を切開して脳の深部に電極を差し込んで、パーキンソ病を治す技術の紹介、それだけでなく脳に数十本の電極を埋め込んで、脳からパソコンヘ命令する首から下半身不随の男性の頭にはパソコンの接続部分が頭皮から顔をのぞかせていた。ホラー映画でも観ている気分になったが、冷静なNHKのナレーションがオブラートに包む。
 この技術を人間に応用して、将来的には軍事利用することをアメリカ軍は公表している。すでに番組の中で、本物のネズミ電極を埋め込んで、リモコンで右左をコントロールして歩かせる技術が確立されていることが紹介されている。終末的な気分にさせてくれるドキュメンタリーだった。立花隆が、この技術の進歩に驚きを隠せず、熱っぽく語りながら「この技術の使い道を間違えたら、大変なことになります。」という。使い道を抑制することなどできるのか?医療と軍事的な利用とが結び付くことにも驚いたし、NHKの番組構成がサイボーグ技術の近未来というレベルで紹介している危うさにも驚いた。
[PR]
# by barubuhutatabi | 2006-10-28 12:36