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羅針盤

この間、半年以上ブログを書くのをやめていた。理由はなかったけど、自分の環境を変えたかったのだと思う。だから、日々の記録がうそっぽく感じていた。(ということにしようと思う。)結果的にその間に、事務所を退職してフリー宣言をした直後に、テレビの特番の仕事を経験できた。ドラマの現場で仕事を、短い期間だけど経験できた。そして、その仕事もひとくぎりつき、こうして文章を書いている。幸運にも、次の仕事は、決まっている。山形の小さな温泉街のドキュメンタリー映画だ。今は、その仕事で自分の表現したいことを明確にするための準備期間だ。この作品で、けじめをつけたい。ドキュメンタリー映画に出会ってから9年近く経つ。ここらで、映画という表現形式を用いて、自分の表現したいことを明確にしたい。大げさなことではなくて、まさに日記をつけるような日々積み重ねていく作業(具体的な段取り)と、映画をつくるということへの喜び(被写体との関係性、スタッフとの共同作業)と、表現を楽しむ精神(映像と音をいかに構築するか、編集であり、撮影時の工夫)があれば、乗り切れると思う。

最近、映画のシナリオ、演劇(戯曲)というフィールドへ、もっと深入りしたいと思っている。俳優という被写体にも興味がある。シナリオという、映像の設計図を考えることは、建築を勉強してきたなかでの、思考のプロセスを強く思い起こさせる。映画の表現形式を、深く理解し、シナリオを書いていきたい。

演劇(戯曲)は、映画のシナリオと似て非なるものだと思うが、俳優との具体的な作業を理解するうえで非常に重要なフィールドだ。

以後、演劇もシナリオについてのブログも書きたい。あくまで、自分が日々どの地点にいたかを示す、羅針盤のようなものにしたい。
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by barubuhutatabi | 2008-06-02 11:49

チェ・ゲバラを知らなかった私と、「汚れた血」を知っていた私

昨日、ポレポレ東中野でチェ・ゲバラのドキュメンタリー映画を観た。チェ・ゲバラの最初のゲリラに参加した生き証人や、チェ・ゲバラと交流があった人の証言によって構成された映画だ。証言者の年齢を考えると非常に貴重な記録になっていた。チェを小さい時から知っている老人や、側近の魅力ある、ユーモアのある、証言によって、あくまでも、チェ・ゲバラ伝説は補完されている。チェの宣伝映画とも呼べるような映画だが、正直言って感化されてしまった。と同時に、親友が信奉していた、チェをなんとなくしか知らず、親友の熱い気持ちも知らなかったのだと実感した。親友が南米に行ってきた時のことを、今度じっくり聞きたい。(しかし、彼はもう故郷に帰ってしまった。)少しの後悔をしての家路の途中で、TSUTAYAの半額キャンペーンもあって、「汚れた血」(レオス・カラックス監督)を借りて、数年ぶりに観た。この映画は、20歳で出会い、自分にとっての最高の映画だった。その当時は、こんな愛を語ってみたいというような映画であり、同時に、映像表現として私自身の意欲を、突き動かされた。久しぶりに観て、当時は、単なるささやき、ポエジーたっぷりのせりふにしか聞こえなかったのが、せりふに作者の意図がしっかりと感じられた。そして、なんてユーモアたっぷりの恋愛映画なんだろうと思った。最初に観た、崇高な恋愛映画ではなく、親しみのある恋愛映画に変わっていて驚いた。

たった、半日でこのような映画体験をした。翌日の今日、国立近代フィルムセンターで、ポーランドの短編特集を観て、映画を楽しんだ。その中の作品で、前回書いた「アマチュア」の作者、クシシュトフ・キェシトフスキが作った5分の短編を観た。その映画は、「汚れた血」の印象的なジュリエット・ビノシュ演じるヒロインとドニ・ラヴァン演じる主人公がバスで出会う、場面とそっくりであった。カラックスが、シネフィルだったことから推測すると、フランスの映画館で観たのかもしれない。しかし、カラックス自身のモチーフでまとめたと考えた方がファンの一人として、ありがたいのではあるが・・、いずれにしても映画とはそのような共体験を呼び起こすのかもしれない。

この二つの些細なことから、単純な教訓を受けた。要は、《知ったつもりは、良くない。》という教訓だ。当たり前だが、情報社会の中では、これは日々起こりうることだ。多くの情報は、人から聞いた話や、噂、テレビの受け売りなど、情報として精度が低いのだ。それに無意識でいると、情報の量によってのみ充足する社会になっていく。それを避けて、自分で判断するには、疑う心、というか懐疑精神が必要だろう。※懐疑論(客観的真理の認識可能性を疑い、断定的判断を原理的に差し控える態度)(広辞苑より)※
 今後の作品を見続けたかった、ドキュメンタリー映画の希有な作家、(先日亡くなった)佐藤真さんの「ドキュメンタリーは、批判的に世界を映し出す鏡である。」という言葉がある。批判的に世界を映し出す鏡はきっと、日々磨き続ける作業を要するだろう。些細なことのなかに、とぎすまされた懐疑精神が宿るのではないだろうかと私は感じてる。その懐疑精神とは、何より自分自身に強く向けられるからこそ、有効なのだろう。
 些細なことだからこそ、見えにくくなる物事への態度を、強く意識していたのが、真さんの言葉の根底にあるのかもしれないと、今は受け止めています。また、時が経つと、違った意味合いを帯びるのかもしれませんね。
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by barubuhutatabi | 2007-09-23 22:00

アマチュア

「アマチュア」を観た。
数週間前にDVDで観た作品だが、けっこう衝撃的だった。劇映画なのだが、もう最近は映画であればすべて学ぶべき対象になっている。一、二年前は、フィクションとノンフィクションを分けて考えていた。これは大きな間違いで、映画は結局、編集という過程で、その区別は消滅することに気づいた。(気づくのが遅すぎた!!)この映画は、ポーランドの映画で、ある工場に勤める男が8ミリフィルムのカメラを手にしたことから、悲劇のようでもあり、喜劇のような顛末を描いたものだ。すごく、身にしみて自分と照らし合わせて観てしまった。なぜなら、カメラを手にしたことで人生が変わってしまった男の物語だからだ。私も、デジタル時代の潮流においてカメラと出会い人生を転換した、元々は建築を愛する学生だった。まあそれは置いておいて・・・この映画で印象的なのはこの男が、アマチュアの映画祭で賞を取ったことがきっかけで、新妻との幸せな生活より、カメラの表現に目覚め、ベランダから道行く人々を記録するなど、カメラによる世界との関係の構築にのめり込んでいった。まあ、一度カメラに目覚めると、当たり前の話にも感じるがが、この映画は8ミリフィルムが普及し始めたころの、1970年代の個人映画制作が広がった頃の様子が、ポーランドという東欧特有の場所で描かれている。工場の記念映画を撮り始め、評価されたことで工場に特別なラボを持つまでになり、工場の障害者の日常を記録したことでテレビにも評価され、さらに16ミリでのルポルタージュをテレビから依頼されるまでになる。しかし、障害者の映画はテレビでも公開され、工場の幹部は首になった。(ポーランドの社会主義の体制が反映されているはず)しかし、工場長は決して怒るわけでなく、男を諭すように語りかけ、首にされた幹部も皮肉にも男を励ます。男は、自分を責め次回作の素材を現像せずに路上に投げ捨て感光させてしまう。妻にも捨てられ、やつれた男はおもむろにカメラを自分に向け妻が出産した日の光景を語り始めて、この映画は終わる。
 ラストシーンと、途中のシーンで感じたのは、この映画の監督が抱く、芸術映画、個人映画への危惧というモノがアマチュアというタイトルになったのではないか。正確ではないかもしれないが、そう感じた。映画は、ある部分でカメラの利便性で変革されたのかもしれない。それは過去の作品でも、証明されている。ただ、真の作家が生まれたのかと問えば多くはアマチュアのままだということではないか?
 技術的にプロで、アマチュアの精神をもてという言葉も聞く。確かに、アマチュアの精神は熱しやすいので、その熱意をカメラに反映することにもなるだろう。この映画で私が感じたアマチュアという問題提起は、きっとそういうことではなく、作家として生きると言うことへの問いかけだと思う。
 園子恩がPFFでグランプリを取った「男の花道」という8ミリ映画は、完全に個人映画だ。前半では大学のキャンパス、後半は実家を舞台にした、パフォーマンス映画というか、出来事だけを記述した映画だ。個々のシーンのつながりはほとんど感じられない。しかしこの映画には、恐ろしくなる程の映画の時間、質感を十分に感じさせる。この映画をつくった後に、スカラシップを得て作った「自転車吐息」は、「男の花道」で感じた、この映画しかもちえない雰囲気としか言いようがないモノをしっかりと、シナリオを通して映画に反映させていた。
 その後の「部屋」、「紀子の食卓」へと繋がる彼の、系譜は驚く!この、変容を問いたい!それがアマチュアという問いだと思う!
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by barubuhutatabi | 2007-07-18 20:26

六ヶ所村ラプソディー

この映画は、とにかく観てほしい。鎌仲ひとみ監督で、ポレポレ東中野でモーニングショーが終わって、すぐにアンコール上映が決まった。たぶん来年の春先にまた上映されるのだろう。
一番観て欲しいのは、日本の農家の人たち、漁業の人たちに観てもらいたい。そして、中学、高校生と若い人にもこれから何を選択していくのかをじっくりと考えていくべきかを考えるきっかけを与えてくれると思う。一見すると、鎌仲ひとみのスタイルはテレビドキュメンタリーという手法からそれほどかけ離れていないのに、なぜこんなに核心的なテーマに触れることができるのか?それは、状況をしっかりと把握していることだと思う。
これから、どう汚染されていくのか。汚染される土地に住む人はどういう人たちなのか。世界の核施設はどういう状況なのか。この三つが映画を通して伝わってくることだ。
 電力を売って儲ける一部の人間の為に、エネルギー問題の解決という欺瞞のもとに金儲けができる法律、制度をつくってきた一部の人間のために日本の国土が100万年単位で汚染されていく。金儲けできなくなるまで、汚染し続けるというシナリオはできている。もう、引き金は引かれたのだ。プルトニウムは発ガン性がウランを遙かにしのぐ量を発する。生身の人間が2秒浴びれば即死する量を100万年もの単位で放出し続ける。
 この作品によって、ジャーナリズムとドキュメンタリーの速度が一致したと思う。ドキュメンタリー映画がジャーナリズムを批判できる位置に追い越したとも思う。どれだけ欺瞞に満ちた世界になりつつあるか感じる。忍び寄る恐怖に警鈴をならすのがジャーナリズムなのに、この世界一の核大国になった日本のなかでは鳴り響くことはなかった。
 
 この作品は核燃サイクルの再処理工場がある六ヶ所村を描いている。戦後、樺太から引き上げてきた人々が開拓した地だが「むつ小河原開発」という巨大な開発が持ち上がり、自民党のアメをもった県の職員が高額で土地を購入していった。しかし、開発はやってこなかった。農家は、仕事を失った。そして、日本原燃がやってきて核燃サイクルの処理場が計画された。村人は、反対派と推進派に分かれて戦った。お金に目がくらんだ人々によって議会で承認され、核燃はやってきた。
そして、もうウラン試験を終えて、プルトニウムを取り出す作業が始まっている。放射能に汚染された廃水は、沖合三キロ地点に海底から放出される。一秒間に70トンの水を7度も上昇させて24時間、365日動き続ける。温度に敏感な魚のとっては深刻だ。
イギリスの核燃サイクルの再処理場が今年事故が起きた。工場内の汚染を改善するのに5000億円がかかるそうだ。イギリスは、再処理場を閉鎖するそうだ。フランスでは、もうとっくにプルトニウムを取り出すというリスクが高い計画から手を引いている。世界で、プルトニウムを平和利用している国はない。すべて核兵器に用いられている。なぜそこまでして日本はプルトニウムをほしがるのか?
 いずれにしても、イギリスの海ではプルトニウムが海岸から検出されている。有名だったビーチは今では誰も訪れない。このことが小さな日本で今まさに起きようとしている。
映画の中で、青森で農業を営んでる有機農業の農家がでている。工場の煙突から空気中に原子炉の一部の空気が排出されるそうだ。周辺の作物は、確実に放射能を蓄積している。
原子力発電がなくならないにしても、目的のないプルトニウムの製造だけは止めなければならない。

〈お知らせ〉 
12月2日に渋谷の勤労福祉会館で「終焉に向かう原子力」という講演会と上映会がある。
京都大学原子炉実験所から、科学ライター、慶應義塾大学の助教授、作家が集まる。

10:30~13:00まで、原発による被害を伝えるビデオ5本上映します。

講演13:30~18:00
広瀬 隆 氏 (作家)「おだやかな私がなぜ怒らなければならないのか日本に住む人よ、知性を取り戻そう」
田中三彦 氏(科学ライター)「浜岡原発が危ない」
小出裕章 氏(京都大学原子炉実験所)「六ヶ所再処理工場の運転を許した私たち」
藤田祐幸 氏(慶応義塾大学助教授)「私はなぜ反原発であるか」

2006年12月2日(土)(10:20開場) 渋谷勤労福祉会館2階第一洋室
資料代1000円(ビデオ上映を含む)
問い合わせ先 :TEL・FAX03-3739-1368
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by barubuhutatabi | 2006-10-30 00:12

生命倫理

羽田澄子監督の作品を観た。80歳の監督が、在宅医療について取材した映画だ。病院で、点滴などの管だらけで死んでしまう終末医療ではなく、在宅医療で家族に看取られながら死を待つことがどれだけ人間的な死を迎えられるかと訴えている。
最近、生命倫理について興味がある。NHKで立花隆が「サイボーグ近未来」を取材したドキュメンタリーが放映された。人間の神経をパソコンで解析する神経工学という分野の急成長が著しいそうだ。自己で腕がなくなった人の神経に、電極を接続してロボットの腕の意識だけで動かすことに成功しているそうだ。頭を切開して脳の深部に電極を差し込んで、パーキンソ病を治す技術の紹介、それだけでなく脳に数十本の電極を埋め込んで、脳からパソコンヘ命令する首から下半身不随の男性の頭にはパソコンの接続部分が頭皮から顔をのぞかせていた。ホラー映画でも観ている気分になったが、冷静なNHKのナレーションがオブラートに包む。
 この技術を人間に応用して、将来的には軍事利用することをアメリカ軍は公表している。すでに番組の中で、本物のネズミ電極を埋め込んで、リモコンで右左をコントロールして歩かせる技術が確立されていることが紹介されている。終末的な気分にさせてくれるドキュメンタリーだった。立花隆が、この技術の進歩に驚きを隠せず、熱っぽく語りながら「この技術の使い道を間違えたら、大変なことになります。」という。使い道を抑制することなどできるのか?医療と軍事的な利用とが結び付くことにも驚いたし、NHKの番組構成がサイボーグ技術の近未来というレベルで紹介している危うさにも驚いた。
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by barubuhutatabi | 2006-10-28 12:36

大浦信行のモンタージュ

四谷で大浦信行の映画を日本観た。
大浦信行は、美術家として荒川修作の助手としてNYに暮らしていた。その時に自画像を描こうと描いたのが「遠近を抱えて」と題した版画群である。昭和天皇の写真が、様々なイコンとごちゃませに配置されている。入れ墨した女体、原爆のキノコ雲、魚、ルネッサンス時代の絵、ありとあらゆるものの中に、昭和天皇というイコンがコラージュされ、見え隠れしている。大浦氏はあくまで自画像として提出したということだ。だが、富山近代美術館では売却され、図録470冊が焼却処分された。
この事件によって、目覚めたと大浦はいう。そして「日本心中」という映画にたどりついたという。
どういう経緯なのかは不明だが、よりアクチャルな表現手段として映画にたどり着いたようだ。「版画だと、自分一人の考えだけで進んでそこで解決したりするじゃないですか。でも、映画は複数の人が関わる分、同じ複製芸術でも自分の考えが、作る課程で鍛えられていくように思います。」
この映画は、針生一郎という美術批評家が書斎で、喫茶店で、韓国の旅路で、ほとんど独り語り(モノローグ)で戦後の美術、思想について語っている。その語りの前後に、針生一郎の韓国を旅する姿、韓国の街角の風景、そして話と関連性のない、大野一雄の舞踏、全裸で刺青を入れ込んでもらう女性、役者の少年少女の不思議な対話が挿入されていく。
この作品のカメラは、辻智彦さん。この方は、若松孝二監督の「十七歳の風景」、イアンケルコフ「シャボン玉エレジー」を撮影、編集もなさっています。辻さんのカメラがこの映画の魅力を引き出していると思った。まったく関連性のない描写なのだが、引き込まれてしまう画面構成を観ながら、針生一郎の留まることのない独り語りに耳を傾ける。一見すると無制限な構成だが、上記のシーンだけでなく現代美術の重要な作家へのインタビューが出てくることによって、日本美術、アジアの美術へと話は導かれていく。
 たとえば韓国の光州事で捕まった美術家が水攻めの拷問を受け、出所後描いた作品は素朴な絵画だが宗教画のような絵だった。「水攻めされる自分はもう人間としての意識が欠落してくる、水攻めしている若い警察の顔も、人間の顔ではなかった。」ある種の達観した意識が彼の絵を描かせているようだった。
この映画は、大浦氏の独特な世界の解釈によって招かれた、時間と空間(全身に刺青を入れ続ける美女、不思議な対話を続ける少年少女と中年の男女、大野一雄、天皇のコラージュ画・・)のなかにアジア、韓国、日本、美術、天皇・・・・様々なイメージが想起され、針生一郎語りのようにダンディに、時には眠気を誘い、時にはエロティックにうねり続けている。

針生一郎について(制作ノート抜粋)
戦前は「日本ロマン派」の保田輿重郎(民族主義の色合いが濃く、復古主義的であった。日本帝国主義のアジア侵略における思想的支柱として援用されもした。)に心酔した。戦後はベンヤミンへの傾倒のもと、ダダイズム、シュールレアリズムの理論を手がかりに、権力が造り上げた構造的暴力としての「生者の歴史」ではない、もう一つの「神話性」と「古代性」、「呪術性」に裏打ちされた民衆のエネルギーの結集によって造り上げられる歴史の概念による、横の拡がりをもった「死者の歴史」の視点に立って、この日本社会の制度を変革しようと試みている。戦後は天皇を維持している体制も批判している。現在81歳

制作意図(制作ノートから抜粋)
このドキュメンタリーは、近代日本の闇と夢を体内に宿しながら、「増殖」と「生成」を繰り返し、未来に向かって新たな地平を切り開いていく「言霊」としての「血の色をした針生一郎」を通しての「触覚日本論」である。(大浦信行)

この映画は、大浦氏の針生一郎の言葉への直接行動(規範・制度を無視して、自己の意思を直ちに達しようとする行動・・革命を志す行為とも言えるだろう)だと思う。現代美術への危機感と、針生氏の生の寿命を考えてのこともあるかもしれない。

現在、「日本心中 9.11-8.15」という新作がポレポレ東中野で上映してます。9.11以後の日本美術の根拠を探る映画だそうです。
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by barubuhutatabi | 2006-10-28 12:35