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六ヶ所村ラプソディー

この映画は、とにかく観てほしい。鎌仲ひとみ監督で、ポレポレ東中野でモーニングショーが終わって、すぐにアンコール上映が決まった。たぶん来年の春先にまた上映されるのだろう。
一番観て欲しいのは、日本の農家の人たち、漁業の人たちに観てもらいたい。そして、中学、高校生と若い人にもこれから何を選択していくのかをじっくりと考えていくべきかを考えるきっかけを与えてくれると思う。一見すると、鎌仲ひとみのスタイルはテレビドキュメンタリーという手法からそれほどかけ離れていないのに、なぜこんなに核心的なテーマに触れることができるのか?それは、状況をしっかりと把握していることだと思う。
これから、どう汚染されていくのか。汚染される土地に住む人はどういう人たちなのか。世界の核施設はどういう状況なのか。この三つが映画を通して伝わってくることだ。
 電力を売って儲ける一部の人間の為に、エネルギー問題の解決という欺瞞のもとに金儲けができる法律、制度をつくってきた一部の人間のために日本の国土が100万年単位で汚染されていく。金儲けできなくなるまで、汚染し続けるというシナリオはできている。もう、引き金は引かれたのだ。プルトニウムは発ガン性がウランを遙かにしのぐ量を発する。生身の人間が2秒浴びれば即死する量を100万年もの単位で放出し続ける。
 この作品によって、ジャーナリズムとドキュメンタリーの速度が一致したと思う。ドキュメンタリー映画がジャーナリズムを批判できる位置に追い越したとも思う。どれだけ欺瞞に満ちた世界になりつつあるか感じる。忍び寄る恐怖に警鈴をならすのがジャーナリズムなのに、この世界一の核大国になった日本のなかでは鳴り響くことはなかった。
 
 この作品は核燃サイクルの再処理工場がある六ヶ所村を描いている。戦後、樺太から引き上げてきた人々が開拓した地だが「むつ小河原開発」という巨大な開発が持ち上がり、自民党のアメをもった県の職員が高額で土地を購入していった。しかし、開発はやってこなかった。農家は、仕事を失った。そして、日本原燃がやってきて核燃サイクルの処理場が計画された。村人は、反対派と推進派に分かれて戦った。お金に目がくらんだ人々によって議会で承認され、核燃はやってきた。
そして、もうウラン試験を終えて、プルトニウムを取り出す作業が始まっている。放射能に汚染された廃水は、沖合三キロ地点に海底から放出される。一秒間に70トンの水を7度も上昇させて24時間、365日動き続ける。温度に敏感な魚のとっては深刻だ。
イギリスの核燃サイクルの再処理場が今年事故が起きた。工場内の汚染を改善するのに5000億円がかかるそうだ。イギリスは、再処理場を閉鎖するそうだ。フランスでは、もうとっくにプルトニウムを取り出すというリスクが高い計画から手を引いている。世界で、プルトニウムを平和利用している国はない。すべて核兵器に用いられている。なぜそこまでして日本はプルトニウムをほしがるのか?
 いずれにしても、イギリスの海ではプルトニウムが海岸から検出されている。有名だったビーチは今では誰も訪れない。このことが小さな日本で今まさに起きようとしている。
映画の中で、青森で農業を営んでる有機農業の農家がでている。工場の煙突から空気中に原子炉の一部の空気が排出されるそうだ。周辺の作物は、確実に放射能を蓄積している。
原子力発電がなくならないにしても、目的のないプルトニウムの製造だけは止めなければならない。

〈お知らせ〉 
12月2日に渋谷の勤労福祉会館で「終焉に向かう原子力」という講演会と上映会がある。
京都大学原子炉実験所から、科学ライター、慶應義塾大学の助教授、作家が集まる。

10:30~13:00まで、原発による被害を伝えるビデオ5本上映します。

講演13:30~18:00
広瀬 隆 氏 (作家)「おだやかな私がなぜ怒らなければならないのか日本に住む人よ、知性を取り戻そう」
田中三彦 氏(科学ライター)「浜岡原発が危ない」
小出裕章 氏(京都大学原子炉実験所)「六ヶ所再処理工場の運転を許した私たち」
藤田祐幸 氏(慶応義塾大学助教授)「私はなぜ反原発であるか」

2006年12月2日(土)(10:20開場) 渋谷勤労福祉会館2階第一洋室
資料代1000円(ビデオ上映を含む)
問い合わせ先 :TEL・FAX03-3739-1368
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by barubuhutatabi | 2006-10-30 00:12

生命倫理

羽田澄子監督の作品を観た。80歳の監督が、在宅医療について取材した映画だ。病院で、点滴などの管だらけで死んでしまう終末医療ではなく、在宅医療で家族に看取られながら死を待つことがどれだけ人間的な死を迎えられるかと訴えている。
最近、生命倫理について興味がある。NHKで立花隆が「サイボーグ近未来」を取材したドキュメンタリーが放映された。人間の神経をパソコンで解析する神経工学という分野の急成長が著しいそうだ。自己で腕がなくなった人の神経に、電極を接続してロボットの腕の意識だけで動かすことに成功しているそうだ。頭を切開して脳の深部に電極を差し込んで、パーキンソ病を治す技術の紹介、それだけでなく脳に数十本の電極を埋め込んで、脳からパソコンヘ命令する首から下半身不随の男性の頭にはパソコンの接続部分が頭皮から顔をのぞかせていた。ホラー映画でも観ている気分になったが、冷静なNHKのナレーションがオブラートに包む。
 この技術を人間に応用して、将来的には軍事利用することをアメリカ軍は公表している。すでに番組の中で、本物のネズミ電極を埋め込んで、リモコンで右左をコントロールして歩かせる技術が確立されていることが紹介されている。終末的な気分にさせてくれるドキュメンタリーだった。立花隆が、この技術の進歩に驚きを隠せず、熱っぽく語りながら「この技術の使い道を間違えたら、大変なことになります。」という。使い道を抑制することなどできるのか?医療と軍事的な利用とが結び付くことにも驚いたし、NHKの番組構成がサイボーグ技術の近未来というレベルで紹介している危うさにも驚いた。
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by barubuhutatabi | 2006-10-28 12:36

大浦信行のモンタージュ

四谷で大浦信行の映画を日本観た。
大浦信行は、美術家として荒川修作の助手としてNYに暮らしていた。その時に自画像を描こうと描いたのが「遠近を抱えて」と題した版画群である。昭和天皇の写真が、様々なイコンとごちゃませに配置されている。入れ墨した女体、原爆のキノコ雲、魚、ルネッサンス時代の絵、ありとあらゆるものの中に、昭和天皇というイコンがコラージュされ、見え隠れしている。大浦氏はあくまで自画像として提出したということだ。だが、富山近代美術館では売却され、図録470冊が焼却処分された。
この事件によって、目覚めたと大浦はいう。そして「日本心中」という映画にたどりついたという。
どういう経緯なのかは不明だが、よりアクチャルな表現手段として映画にたどり着いたようだ。「版画だと、自分一人の考えだけで進んでそこで解決したりするじゃないですか。でも、映画は複数の人が関わる分、同じ複製芸術でも自分の考えが、作る課程で鍛えられていくように思います。」
この映画は、針生一郎という美術批評家が書斎で、喫茶店で、韓国の旅路で、ほとんど独り語り(モノローグ)で戦後の美術、思想について語っている。その語りの前後に、針生一郎の韓国を旅する姿、韓国の街角の風景、そして話と関連性のない、大野一雄の舞踏、全裸で刺青を入れ込んでもらう女性、役者の少年少女の不思議な対話が挿入されていく。
この作品のカメラは、辻智彦さん。この方は、若松孝二監督の「十七歳の風景」、イアンケルコフ「シャボン玉エレジー」を撮影、編集もなさっています。辻さんのカメラがこの映画の魅力を引き出していると思った。まったく関連性のない描写なのだが、引き込まれてしまう画面構成を観ながら、針生一郎の留まることのない独り語りに耳を傾ける。一見すると無制限な構成だが、上記のシーンだけでなく現代美術の重要な作家へのインタビューが出てくることによって、日本美術、アジアの美術へと話は導かれていく。
 たとえば韓国の光州事で捕まった美術家が水攻めの拷問を受け、出所後描いた作品は素朴な絵画だが宗教画のような絵だった。「水攻めされる自分はもう人間としての意識が欠落してくる、水攻めしている若い警察の顔も、人間の顔ではなかった。」ある種の達観した意識が彼の絵を描かせているようだった。
この映画は、大浦氏の独特な世界の解釈によって招かれた、時間と空間(全身に刺青を入れ続ける美女、不思議な対話を続ける少年少女と中年の男女、大野一雄、天皇のコラージュ画・・)のなかにアジア、韓国、日本、美術、天皇・・・・様々なイメージが想起され、針生一郎語りのようにダンディに、時には眠気を誘い、時にはエロティックにうねり続けている。

針生一郎について(制作ノート抜粋)
戦前は「日本ロマン派」の保田輿重郎(民族主義の色合いが濃く、復古主義的であった。日本帝国主義のアジア侵略における思想的支柱として援用されもした。)に心酔した。戦後はベンヤミンへの傾倒のもと、ダダイズム、シュールレアリズムの理論を手がかりに、権力が造り上げた構造的暴力としての「生者の歴史」ではない、もう一つの「神話性」と「古代性」、「呪術性」に裏打ちされた民衆のエネルギーの結集によって造り上げられる歴史の概念による、横の拡がりをもった「死者の歴史」の視点に立って、この日本社会の制度を変革しようと試みている。戦後は天皇を維持している体制も批判している。現在81歳

制作意図(制作ノートから抜粋)
このドキュメンタリーは、近代日本の闇と夢を体内に宿しながら、「増殖」と「生成」を繰り返し、未来に向かって新たな地平を切り開いていく「言霊」としての「血の色をした針生一郎」を通しての「触覚日本論」である。(大浦信行)

この映画は、大浦氏の針生一郎の言葉への直接行動(規範・制度を無視して、自己の意思を直ちに達しようとする行動・・革命を志す行為とも言えるだろう)だと思う。現代美術への危機感と、針生氏の生の寿命を考えてのこともあるかもしれない。

現在、「日本心中 9.11-8.15」という新作がポレポレ東中野で上映してます。9.11以後の日本美術の根拠を探る映画だそうです。
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by barubuhutatabi | 2006-10-28 12:35

黒木和雄のPR映画の手法

映画美学校の公開講義を受けた。黒木和雄のPR映画の時代というのは、金があったんだなあーとびっくりした。
「海壁」では、水中カメラ、空撮をこれでもかという具合である。模型に直接チョークで書き込んで、工程をおおざっぱに説明してしまうあたりが、時代を感じさせる。後は、今でも通用する画質(35ミリ)と空撮と水中カメラ、崖の爆破シーンなど、実に細やかに、実に劇的に火力発電所の工事を描いていた。
「恋の羊は海いっぱい」では、ミュージカル仕立てのシーンではカラフルな全身タイツのダンサーがくるくると回転しているカットと織物が織られていくところを構成主義的に見せていく。高速で糸が通過していくショットや、織物の柄への素早いズームインなど、すぐれたカットが多かった。
「わが愛北海道」では、空撮を多用しながら北海道の風景を見せていく。(後の、「飛べない沈黙」と似たような白樺の林の風景もでてきた)アランレネの「24時間の情事」のように、女性と風土(広島のようなもの)を重ねて語っている。車からの移動ショットや、撮影当時の北海道の風景が美しい。
「10ドル旅行」これは、松川八洲雄監督の脚本で、おちゃらけたトヨタのPR映画であった。アメリカの少女がでてきて、日本を縦断していく。(この女が縦断するというモチーフが多い気がするが?)
「あるマラソンランナーの記録」
PR映画で人間を描くということのタブーへの挑戦、フィルムの端尺を集めてまでして映画を完成してきた。富士フイルムがスポンサーで東京オリンピックの選手を記録することを依頼された。スポンサーを押し切っての製作は、クライアントのいくつかの要求を与しながらも、完成した。終盤の君原選手の走っている時の呼吸と顔のクローズアップによって、マラソンというスポーツを強く印象づけた。
「僕のいる街」
この作品は、昭和天皇が崩御した時に皇居前、銀座の街を撮影している。戦時下の銀座の写真をカメラの動きで実に生き生きと描く。現在の銀座の風景は時が止まったかのように、凍り付いてしまったかのように描いている。「僕は、あの日あそこにぶら下がっていた」というナレーションが、被災した廃墟の写真のなかの電線にぶらさがった傘にカメラはズームしてく。言葉と映像とが鮮やかに編集されている。なぜ、銀座を壊したアメリカを日本は受け入れているのかという怒りのナレーションが入る。

黒木監督のPR映画の「海壁」にしても、「わが愛北海道」にしても、ナレーションが映画の基調としてしっかりとある。劇映画の中では、モノローグによって「飛べない沈黙」「日本の悪霊」では絶妙なモンタージュを形成していた。
「日本の悪霊」は偶然、うり二つのヤクザと刑事(同じ俳優)が出くわし、ヤクザの妻と(妻も他人とは知らずに)寝た間抜けな刑事を脅して、刑事になりすますというところからこの物語が始まる。そして、ヤクザが自分が学生時代に起した殺人事件について調べ始めうる。学生時代に、殺人事件を指揮し、自分も信じ込んだ主犯の男はどうしたのか・・結局は、今では廃人のようになっていた。
この映画の公開当時、学生運動が下火になってきて、あの熱中した時代は何だったのかという気運が高まっていたようで、学生たちに熱狂的に支持された映画だそうだ。自分が関わった事件が何であったのかにこだわるヤクザに、当時の学生は自分を重ねたのだろう。途中から、刑事とヤクザがどちらが登場しているのかわからなくなるような構成になっている。その誰なのかがあやふやなまま女と寝るシーンがある、女は「あんは、あんただよ。あんたが100人いたら、うれしいな、100人全員愛しちゃう。」とおかしなことをいう。もう、過去が何であるか、自分が何であるかなど解決が付かなくなっていく。そして、最後にカメラの前に(同じ役者だが、)刑事とヤクザが現れ(特撮で同じ俳優が二人出てくる)、ふたりで刀をもって全裸で突進していく。
結局、この最後にこの映画は映画の虚構性そのものをぶち壊したかったのかーと感じた。学生闘争という物語の虚構性ともいえると思う。虚構性を壊すだけなら、簡単なことだが、どう壊すかということに苦心したことだろう。

全編通して毒の効いた、かの有名なフォクシンガー岡林信康の唄がはさまれる。この映画に登場してくる岡林をみていると、社会のブルジョアジーを非難して唄い、最後には学生運動の虚構性すらも茶化す曲をうたっていたことに驚く。この、岡林の唄を差し挟むことで、次第に映画自体に隙間ができてくる。観客は次第に、岡林が唄う時代の空気感を感じる、次第に映画の虚構性の崩壊を許容していくのだと思う。岡林という人物がもつ、映画の虚構からはみ出てしまう時代の臭いに映画は支えられ、最後に映画の虚構という呪縛を壊すのだろう。
ゴダールの「ワンプラス・ワン」を途中までしか観てないが、近しい印象を持たせた。

最後の「私たちの望むものは」という曲は、いい曲だ。。

 
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by barubuhutatabi | 2006-10-28 10:53 | 映画

OUT OF PLACE

 この映画は、エドワード・サイードの「OUT OF PLACE」という著書をもとに構想された。この映画は、パレスナ出身のエドワードが遠いアメリカで生きて考えたことがつづられているそうだ。(まだ読んでないので・・)佐藤真監督は、9.11以降について映画で言及できないだろうか思案していたそうだ。シグロの山上徹二郎さんからのすすめでサイードにインタビューをして、ドキュメンタリーが作れないかというところからこの企画がスタートしたそうだ。しかし、サイードは2005年に亡くなってしまう。ここから、映画を出発せざるをえなくなってしまった。
 佐藤真は若くして亡くなった写真家・牛腸茂雄の映画を撮っている。写真というものが持つ世界を映画という世界で語ろうとした。牛腸茂雄が撮りためていた16ミリを用いながら、ナレーションで牛腸茂雄の手紙が読まれる。写真と映画を通じて、記憶そのものをモチーフにしたのではないだろうか。期せずして、牛腸茂雄で試みた記憶というものを足がかりにせざるをえなくなったのが本作品だと、佐藤さんは語っている。
 僕が、この映画の独自性を感じるのは佐藤さんがパレスチナという場所を考えるということだ。
僕たち日本人が、パレスチナという場所を語るのと、パレスチナ出身のサイードが語るのとでは違うと思う。しかし、ある部分で共通性がある。サイードも、佐藤さんも、パレスチナでの悲劇の当事者ではないのだ。しかし、そこに道徳的なものが働くからこそ「OUT OF PLACE」をサイードに書かせたのだ。
 中世の哲学者が考えた「道徳の遠近感」という概念があるそうだ。今、自分がいる部屋で人が殺されそうな時に、きっと僕は止めに入る。しかし、1キロ先の殺人は止められるか?いや、予想すらできない。事後的に知る以外にない。地球の裏側では?もう、どうすることもできない。
道徳には遠近感があるじゃないか?
 それを、打ち壊したのが本、新聞、テレビなどのメディアだろう。今ではより多様である。しかし、このご時世道徳の遠近感がなくなりグローバルの世界の事情を考えられるようになったのだろうか?情報が流れていってるだけではないのか?
 映画のプロパガンダとして感情移入させて人を、道徳的にも扇動しようと思えばたやすいことだろう。しかし、そういったものは多くのドキュメンタリー作家の優れた作品によって否定され、観客も否定してきた。では、いかなる作品が可能なのか?その答えのヒントがこの作品にはあるのと思う。「ルート181」のように、ユダヤ人とパレスチナ人の当事者が描くアプローチとは別のやり方があるのではないか?
 映画というモンタージュの発見は、終わったのではない。現実によってモンタージュも更新されていくのだ。サイードの昔の別荘、サイードの父親が撮った8ミリフィルム、サイードの書斎、今では物置に等しいコロンビア大学の研究室とパレスチナの難民キャンプに住む大家族の中での日常の空気、コーヒーを煎りながら「冬の寒さ、においが好きだ」という男性、声が出ないパレスチナ難民の老人の身振り手振りの会話、料理を囲みながらの団欒、決して平和とは言えない中での暮らし、これらがモンタージュされていくのだ。そして作者の人格、ルーツ、思想、そういったものが見え隠れしている。
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by barubuhutatabi | 2006-10-28 10:12 | 映画

メキシコドキュメンタリー映画

~メキシコのドキュメンタリーの映画祭について数作品の報告~
「僕は・・」(SOY)
ハンガリーの脳性麻痺の人が自らの体を元に、小さい時からの脳性麻痺を克服していく教育プログラムをつくった。そのプログラムが、メキシコに持ち込まれた。そのプログラムを実践してきた少年少女を中心にしたドキュメンタリー映像である。彼らが日々実践しているプログラムを中心に紹介している。この映画は、狂信的にそのプログラムを忠実に追っていて、なんの躊躇も感じさせない構成になっていた。彼ら、彼女らが詩を書いて、普通の高校に行って読み上げるシーンにしても、何の躊躇もなく賞賛されている様子しか映っていない。それが、ドキュメンタリーといえるのかと思った。特にナレーションがないのだが、一方通行の見せ方になっていてかなり戸惑った。

「メキシコ女性刑務所/塀の中の物語」
RELATOS DESDE EL ENCIERRO
ハリスコ州プエンテ・グランデ女性刑務所にカメラが潜入した。この映画の特徴は、イメージ映像として囚人たちが檻の中で悲しい顔をしている映像が差し込まれたり、不穏な音が随所に差し込まれる。それ以外のシーンは、オーソドックスにインタビューを中心に構成されている。女性たちのそれぞれの、生い立ちや行き場のない思いをカメラを前に話す。年をとって行くことへの恐怖、家族から見放されること、鬱病の克服、刑務所の中の人間関係などが赤裸々に語られる。彼女たちは、自分という自我と刑務所という法によって二重に拘束されている。たとえ希望を今日語ったとしても、長い拘束時間の中で消えてしまう。彼女たちの話の中で見え隠れする不安そのものが、この刑務所を表している。だけど、自我の変化について少しでも語ることができる人たちは確かにいる。語ることが自分という硬直した檻を溶解していくことなのかもしれない。
監督のインタビューでの質問が絶妙なのだと思う。何気ない質問が、彼女たちをそれぞれ理解しているから出てくる質問なのだろう。何ヶ月にも渡っての取材を行ったそうだ。

「黒い牛」
TORO NEGRO
ユカタン半島に住む23歳のフェルナンド・パチェコ、地元の闘牛士として賞賛をえるべく、牛めがけて突進していく毎日だ。日本の感覚では、完全にずれてしまうほどの生活環境の違いがある。家出少年のネグロは、興行主の中年の女性と同棲している。その中年の女性には子供が二人いる。ネグロは、アル中であり、10代は薬漬けの日々だったそうだ。彼ら若い闘牛士が繰り広げる闘牛は酷い。酒を飲み女装して闘牛をしたりと、見せ物としての闘牛をやっている。とにかく、ネグロは酒を飲んではトラブルを起こす。ついには、中年の女性まで殴ってしまう。彼は、自分を抑制することを知らない。カメラは、殴り続けるネグロを止めずに回している。ついに、中年の女性から監督にネグロを止めてくれと言う言葉が出た。相当な信頼関係でこの撮影は築かれているようだ。中盤のシーンは、ネグロが中年の女性と喧嘩を繰り返して行く。追い出されそうになってものネグロは、居座り続ける。撮影スタッフとネグロの関係でこの映画はできている。喧嘩の最中でも、カメラは劇映画のように構図を恣意的にきめている。ネグロは実家に10年ぶりに顔を出す。実の母親になじられる。最後は母として怒気を含みながら、彼を励ます言葉を投げかける。殴られながらもネグロを追い出そうとしていた興行主の女性のお腹にネグロの子供がいる。奇跡的に生まれてきたカワイイ女の子がこの映画のラストを飾る。和解したのかネグロと興行主は再び一緒に住んでいるようだ。ラストカットはネグロがビールを飲みながら闘牛ヘ立ち向かう様子だ。この映画の途中は、ミュージックビデオを観ているかのような編集と音楽が差し込まれる。この映画はネグロという問題児を許容しながら、メキシコの風土をつややかに写している。

メキシコの魂を唄った男/ホセ・アルフレド・ヒメス
LA VIDEO NO VALE NADA
この映画は、メキシコが生んだ偉大な歌手であり作曲家だ。楽器も弾かなければ、音符も読めなかった。しかし、詩を書き鼻歌を歌って曲作りをしてきた。この映画は、ホセの音楽と、写真と映画の中のホセが映像の中心になっている。インタビューは、メキシコ文学者、妻、娘、息子、甥、作曲家、歌手、若いミュージシャンで構成されている。それぞれのインタビューを小分けにして、テーマごとに何度も出てくる構成になっている。さっきは違うテーマで話していた人が、同じインタビューの中で、違う主題にも触れている。そのことが、観ている側に折り重なるようにテーマが見えてくる。一つのテーマは、もう一つのテーマと無関係ではない。話とはそのように構築されていて、構成されるとちりばめられ、映画の中で統合される。オーソドックスな手法だが、亡くなった人を描く上では有効な手段だと思った。
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by barubuhutatabi | 2006-10-20 21:12 | 映画

出草之歌・・・古の戦いの歌、そして現代への怒りの歌へ

アップリンクで映画「出草之歌」(しゅっそうのうた)を観た。台湾に住む原住民(以後ネイティブ)の人たちが、靖国に祖先が合祀されていることへの取り下げを要求するために来日していた。それがこの映画のスタートである。彼らは、台湾では40万人という少数の集団だ。彼らは、中国に何度も侵略され土地を奪われてきた、次に日本の植民地化にあう。皇民化教育を受け、義勇軍として日本軍の前線に送られた。戦死したあげくに勝手に合祀されたというわけだ。今回の訴えは、ネイティブの若い世代が自分たちのルーツをたどる中で、問題として取り上げた。さんざんひどい目に遭ったのだから、祖先の魂を勝手に祀るなという思いも当然あるだろう。
ネイティブの顔を見ると、東南アジアの顔に近い、なかには中国系の顔の人もいる。日本の街を歩いていてよく目にする顔のタイプもある。日本人のルーツの顔だ、と驚いた。部族出身の台湾の立法委員の女性、高金素梅さんは本当に美しい。
ネイティブは本当に歌がうまい。文字を持たない民族で、歌をうたうことで伝承してきた。まさに、日本のアイヌ民族のようだ。映画の中で、部族の歌を歌うグループがいる。彼らがウズベキスタンの音楽祭に行くシーンを観て思ったのは、この民族には歌という強烈な手段を受け継いできたのだと。年配のご老人すら、歌詞の意味がわからないほど古い歌もうたう。意味がわからなくてもこれほど、豊かな感情を歌にのせられる。
台湾のテレビでは、政治家が「原住民は南米へ移住すればいい」と言っている。
高金素梅さんが台湾各地、NY、日本で台湾のネイティブの現状の悲惨さを訴えている。ラストでは、靖国神社の神官に面会しようとするが、断られる。境内では警官や、右翼にじゃまされた時、彼らは歌をうたった。高金さんを囲んでみんなで歌った。周りでは警官が叫んでいる。それでも彼らはひたすら古の祖先から受け継いだ歌を歌う。

大阪地裁では、合祀撤回の訴えは棄却された。
高金さんは、癌のキャリアがある。もうすでに、訴え続けて10回近い来日をしている。

この映画を観て、ナショナリズムをしっかりと批判できるだけの勉強が必要だと感じた。いずれは事実、現場での実感を通してナショナルな問題を考えたい。
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by barubuhutatabi | 2006-10-07 00:50 | 映画